イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

ある雨の日【短編】

頭の奥の方から目玉焼きが焼けるような音が聞こえて心が躍る気持ちで目を覚ましたが、それは雨の音だった。そもそも私が一人で暮らすこのアパートで誰かが目玉焼きを焼いているとしたら、心躍る以前に警戒心を持つべきだろうと徐々に冴えてくる頭で自分に言…

温度が下がる【短編】

肉付きの良い大きな体に左右から挟まれて動きを制限されたが、二の腕が伝わる湯たんぽのような熱は冬の寒さには有効活用できた。〇℃に近い冬の夜を貫くように走る黄色の電車の窓は換気のために少し開けられていて、ひゅう、と音を立て滑り込んだ細く冷たい風…

アイウォントチキン【短編】

目をつむれば、小人になった私が、ヒヨコが歩き回る箱に放り込まれているファンタジーな絵が想像できた。目を開くと、大きなホースみたいな階段口から水の如く溢れ出る、人、人、人。 彼らがピヨピヨと鳴くカードをかざしながら改札を通り抜けると、皆がのっ…

背筋【短編】

一人また一人とドミノのように倒れていく半身で視界が開けていった先に小さな背中をすんと伸ばした少女が見える。熱心に授業を受ける彼女を誰もが学生の規範と認め敬い、他方で一般的な学生よりもやや伸びすぎた背筋をどこかで笑っていた。 彼女は自身の模範…

利己的久しぶり【短編】

もう少しメニューを吟味したかったが、俺の後ろに列が出来始めたので勢いでA定食を選んでしまった。食券を受け取った食堂のおばちゃんは慣れた動きで素早く米を盛り、みそ汁を注ぐ。その身のこなしに感心しながら茶碗をお盆に乗せようと手を伸ばすと、手のひ…

理想の年明け【短編】

湿った土を踏む足音が連なって聞こえている。深い夜か浅い朝と呼ぶべきか、午前四時頃に黙々と山を登る一行の足音だ。十数人が列を組み、うねうねと山道をなぞる様子はきっと一匹の大蛇にも見えよう。どこを見ても色彩の乏しい景色は変わらないので私はただ…

もらうひと【短編】

鼻の奥で枯れ葉が蠢くようなくすぐったさを感じて五回続け強烈なくしゃみ。喉のあたりに焚火が行われているような熱い痛みを感じる。ほくほくで優しい甘さをもった焼き芋を舌の上で堪能した後に喉に滑り込ませたならたちまちこの季節風邪も癒えるだろう。筋…

しなしな【短編】

糸がほつれ、もう自立できずしなしなと壁に体を預けるだけの薄汚れたリュックサックの口から、噴水のように白菜と長ネギが飛び出ている。やがて白菜の重みに耐えかねて倒れたリュックからゴロゴロとにんじんが転がり出た。 目に入った人間から喰らいつく巨人…

図書室で会いましょう【短編】

朝、教室に入ると数人の女の子達が私の机を囲み楽しそうに背中を揺らして談笑しているのが見える。周囲から隔てたように隠された机の上にあるのは一冊の中高生向けファッション雑誌だ。持ち込み禁止のそれに載った流行している服やメイクについて話し合うの…

曲がり角【短編】

英単語を追うよりも、落ち葉がカラカラと地を駆ける乾いた音に意識が連れていかれていることに気づき、英単語帳を自分の傍らに閉じて置いた。 季節は神がスイッチ一つで管理しているのか、冷たい冬は突然始まった。お気に入りの秋服を満足に着る暇もなく秋が…

次こそ死神【短編】

六月上旬、その日は久々の晴天で、雨雲を押し退けた太陽がアジサイの上の水滴を宝石に変えるような気持ちの良い日だった。下校する中学生の声はいつにも増して興奮気味である。この町のK中学校で中間試験の結果が返されたのが学生の熱気の理由だった。試験か…

2021年

文字のないもの【短編】

家からその「日向公園」まで行くには徒歩三十分を要するのだけれど、それがまた日が陰り涼しくなった休日の夕方に丁度良い運動になっている。公園というが、広大な敷地に遊具は一つとなく、花畑と桜木が並ぶ野原、それらを繋ぐアスファルトの道があるばかり…

クリスマスプレゼント【短編】

私の家の隣には、「鈴木静香クラシックバレエ教室」という名のバレエ教室がある。道に面した側はガラス張りになっていて、仕事から帰ってくる時間帯には、柔軟に体を折り曲げる小学生か中学生あたりの少女たちの様子がよく見えた。 顔を赤くして震える少女の…

イケてる赤色【短編】

夏服から冬服の移行期間はどちらの制服を選んでも良かった。昨日まで冬服のブレザーの紺色と夏服の赤いベストがまだらに染めていた道が、今日は一気に紺色に染まった。友人同士で衣替えのタイミングを合わせた人が多かったのかもしれない。曇天の下の深海に…

残り者には福がある【短編】

ブレーキの不快な音はたてずにピンク色の通勤電車がやってきた。そこに乗り込む労働者たちは皆、黄や水色など色とりどりのスーツで身を包んでいる。窓から覗いて見える澄み渡った青空、数えきれないほどの花々にゴミも雑草もない整然とした道は、実際に広が…

おはようみそ汁【短編】

空気清浄機とエアコンの無機質な作動音も寝静まった街のアパートの一室の中ではやけに大きく響く。寝室で眠る水本さんは、彼の特徴である地響きのような低い声からは想像のつかない小鳥のさえずりのような可愛らしい寝息を規則的にたてていた。家電までいび…

微笑み地蔵【短編】

夜九時を過ぎて駅前のスーパーの客足も遠のいてきた頃合いだ。駅から出てくるサラリーマンは皆一様に満月を見上げ、顔を綻ばせてから家路に着いたが、私は眼下に広がる幾多もの"たこ焼き"の見過ぎで、円形に辟易としてしまって、月など見る気が起きなかった…

宇宙船【短編】

息苦しく縛られたネクタイを、仕事の重荷と一緒に緩めると、人の息を含んだ生暖かい酸素が肺に滑り込んだ。鬱屈した空気が漂う街も、平日最終日となるとどこか陽気さと開放感を持っていて、店たちのギラギラとした照明もいつになく華やかだ。眩しい光から逃…

ことば【短編】

気づくと僕を取り囲む世界は目まぐるしく変わっていた。いつからこんなに変わったのか定かではないけれど、思い出せることは、僕はずっとオレンジ色の暖かい海に漂っていたということだ。そこは端のない広大な海だった。僕はそこで見えないものを見て、聞こ…

風船【短編】

七時を指す壁掛け時計とカーテンから透けて見える草やら気が目に入る時、いつもため息が出た。コピーしてペーストしたかのような、毎日変わらない朝と町。早くここから抜け出したいと思っているだけの私までも、コピーアンドペーストして今日に持ち越されて…

幸せな幸子【短編】

カーテンを開け放った窓からのぞく早朝の空には、居眠りをしている白い三日月が浮かんでいる。幸子は、傍らで彼女を見守る四人の家族の暖かい体温を感じながら、最後の青空を見つめていた。幸子が名前の通り、二人の孫と娘夫婦に囲まれ幸せな最期を迎えるこ…

タイマー残り一日【短編】

ボタン一つで素早く起動するパソコンの如く、私はやにわに目を覚ました。稀にアラームに頼らず自然に覚醒する朝があるのだが、そんな日は決まって夢を見ていた。今日の夢は、朝の満員電車の乗客が私を除いて全て「きゅうり」で、それがキィキィと不気味な摩…

春の地図【短編】

始めて地図を使ったのは五歳の時だった。 ママチャリの後部座席しか知らなかった私はどこに行くにも、後ろから着いて行くのを常としていたが、これからは違う。小学生になればランドセルを背負い、一人で道を歩む。 幼稚園を卒園した春、母は真剣にそう言っ…

妖光【短編】

東山の長い黒髪は、まるで一枚の布のようだ。背中に垂れ下がった布は、黒板とノートを往復する彼女の視線に合わせて、陽光を受け青く光りながら揺れている。幾度、上下に彼女の背中を撫でても、毛先は水平を保ち続けていた。それはやはりラメを含んだ布のよ…

上映時間十二分【短編】

いつしか一日というものが、私の手に負えないほど、果てしなく長いと感じるようになった。 七十八年という歳月は神羅万象、つまるところ、あらゆる愛、悲しみ、朝露のきらめき、星の瞬き、その他諸々を知るのに充分な長さだったと思える。そう孫にぼやくと、…

不寛容な人になろう

駅のトイレで十分ほど順番を待った後、「うちの子がもう我慢できないみたいで」と親子連れが割り込んできたが、子供が気の毒に感じ順番を譲る。 友人は、仕事の付き合いで今朝まで上司と飲んでいたようだから多少の遅刻は見逃す。 例に挙げた二つの寛容な行…

撮像素子【短編】

最後にこの部屋に陽光が満ちたのを見たのはいつだったか。 残業を終えて帰宅した午後9時、窓から侵入してカーテンを通り抜けた弱弱しい街灯の明かりが家具達の輪郭を浮かび上がらせていた。 そのまま部屋は電気を点けずに小さな二人掛けソファに沈み込むと、…

居場所を持たぬ者たち【短編】

7月に採用されたたい焼き屋のアルバイトの研修期間がついに終了した。 これからは時給が百円高くなるので、一ヶ月に食す豆腐をプリンに変更する余裕ができたことはもちろん俺を喜ばせたが、何よりも六つ下の大学生に業務を教わる情けなさをもう味わわなくて…

Hello Future【短編】

やあ、聞こえるかい? 僕と君が出会う、遥か遠い未来からこの思いを届けるよ。聞こえたら返事して。 朝の通学電車で、私たちはいつものように一つの生き物になる。私たちといっても、互いの名前も顔さえも知らないし、知る術も知らない。 ただ、互いの行き…