イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

2021-08-01から1ヶ月間の記事一覧

春の地図【短編】

始めて地図を使ったのは五歳の時だった。 ママチャリの後部座席しか知らなかった私はどこに行くにも、後ろから着いて行くのを常としていたが、これからは違う。小学生になればランドセルを背負い、一人で道を歩む。 幼稚園を卒園した春、母は真剣にそう言っ…

妖光【短編】

東山の長い黒髪は、まるで一枚の布のようだ。背中に垂れ下がった布は、黒板とノートを往復する彼女の視線に合わせて、陽光を受け青く光りながら揺れている。幾度、上下に彼女の背中を撫でても、毛先は水平を保ち続けていた。それはやはりラメを含んだ布のよ…

上映時間十二分【短編】

いつしか一日というものが、私の手に負えないほど、果てしなく長いと感じるようになった。 七十八年という歳月は神羅万象、つまるところ、あらゆる愛、悲しみ、朝露のきらめき、星の瞬き、その他諸々を知るのに充分な長さだったと思える。そう孫にぼやくと、…

不寛容な人になろう

駅のトイレで十分ほど順番を待った後、「うちの子がもう我慢できないみたいで」と親子連れが割り込んできたが、子供が気の毒に感じ順番を譲る。 友人は、仕事の付き合いで今朝まで上司と飲んでいたようだから多少の遅刻は見逃す。 例に挙げた二つの寛容な行…

撮像素子【短編】

最後にこの部屋に陽光が満ちたのを見たのはいつだったか。 残業を終えて帰宅した午後9時、窓から侵入してカーテンを通り抜けた弱弱しい街灯の明かりが家具達の輪郭を浮かび上がらせていた。 そのまま部屋は電気を点けずに小さな二人掛けソファに沈み込むと、…

居場所を持たぬ者たち【短編】

7月に採用されたたい焼き屋のアルバイトの研修期間がついに終了した。 これからは時給が百円高くなるので、一ヶ月に食す豆腐をプリンに変更する余裕ができたことはもちろん俺を喜ばせたが、何よりも六つ下の大学生に業務を教わる情けなさをもう味わわなくて…