イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

不寛容な人になろう

駅のトイレで十分ほど順番を待った後、「うちの子がもう我慢できないみたいで」と親子連れが割り込んできたが、子供が気の毒に感じ順番を譲る。

友人は、仕事の付き合いで今朝まで上司と飲んでいたようだから多少の遅刻は見逃す。

例に挙げた二つの寛容な行為は、そう行動した人にとっては損にしかならないと言える。しかし、多くの人がこのような状況に遭遇したと際に「このくらいなら」と寛容に行動するのではないか。

そこで我々は今一度、不寛容の重要性を見直す必要があると考える。

 

思えば、我々は幼い頃から人に寛容になるように教えられてきた。「自分にされて嫌なことは人にしない」を合言葉に、順番も物も自ら譲ってきた。しかし、寛容を強調しすぎたばかりに、真の目的を見失ってはいないだろうか。

自分の欲を抑え、おもちゃを友達に譲っても、「偉いね」と頭を撫でられただけだったように、大人になっても、寛容な行動の先にあるものは賛辞の言葉のみだ。もちろん、自分の寛容な行動がいずれ自分に返ってくる場合もある。恩返しを題材にした童話も多い。しかし我々が生きるのは童話の世界ではない為、例外も数多だ。厚顔無恥にも人の寛大さに漬け込み、遅刻を重ねる人もいる。失われた時間と引き換えに返ってくるのが「優しい」「良い人」などと言った評判だとあまりに空しい。それゆえ、寛容と同様に不寛容な態度も身に着けるべきなのだ。

 

不寛容と聞くと冷たいと思われるかもしれないが、もちろん人の頼みを全て跳ねのけるということではない。「自分にされて嫌なことは人にしない」が我々にもたらすのは「公平」だ。貴方も私も損をしない世界である。したがって、これを守れない人と遭遇して自分にだけ損があるときに不寛容を行使するのだ。

受け入れられない申し出を断るとき、なぜ無理なのかを伝えることで、寛容の湯につかっていた者が目を覚ますかもしれない。そして相手を想えた時に真の「寛容の循環」が始まる。