利己的久しぶり【短編】
もう少しメニューを吟味したかったが、俺の後ろに列が出来始めたので勢いでA定食を選んでしまった。食券を受け取った食堂のおばちゃんは慣れた動きで素早く米を盛り、みそ汁を注ぐ。その身のこなしに感心しながら茶碗をお盆に乗せようと手を伸ばすと、手のひらに触れる粘着質な米粒の感触。
速さも重要だが丁寧な仕事も欠かせないぞ、とエプロンの紐が食い込む背中に細い睨みを送った。
A定食は俺の苦手な煮魚定食だった。そうと分かった瞬間に、皿に伸ばした指先がわずかに力を失なったが、盆にのせ終え踵を返すと、温泉卵もつくよ、という怒鳴りに近い叫びに足止めを喰らう。
四方から注目の視線が刺さるのを感じ、温泉卵男とあだ名がついたらどうしてくれると脳内で糾弾する。卵が入った小皿の横に並ぶチキンカツ定食に再び細い睨みを送った。スタッフの接客態度が悪いと口コミで低評価を書き込みたかったが大学の食堂にはそんなものは存在しない。
窓際の席を気に入っていたが、今日は女子の集団が大変賑わっていて肩身が狭いから男だらけのカウンター席に方向転換した。一人飯が連なるカウンターに並べられた背中はキラキラしたキャンパスに似合わない陰りがある。厨房から聞こえる中年女性と中年男性の談笑の方がよほど若々しく青春を感じられた。
自炊で節約していた食費の中での稀な贅沢だった学食を残すなど許しがたいとリュックの底から財布のくぐもった叫びが聞こえたが、海の生臭さが無理だと俺の鼻と口は反論する。
葛藤の中でみそ汁とひじきの往復を繰り返していると不意に背後から声をかけられた。目は見開き、眉が吊り上がっているせいで額に綺麗な三本のしわが刻まれているその男は、久しぶりだ、と繰り返し唱えたがまるで記憶にない顔だった。こちらは一言も口を利いていないのに、さも当然といったように隣に腰を下ろした男を、呆然と眺めていると「一年の前期のフランス語で一度ペアになったことがある鈴木だよ」と名乗られた。
覚えている訳がないと突き放そうとする言葉は、次に鈴木が口にした言葉によって、食道を通り俺の体内に戻された。
「本当はA定食食べたかったんだけど売り切れでさ」
俺は目線だけでなく体ごと鈴木と向き合うと、「本当に久しぶりだな」と笑いかけた。鼻をかすめるチキンカツの脂っこい匂いに口内を唾液で満たしながら。
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お題「忘れる人」