イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

春の地図【短編】

始めて地図を使ったのは五歳の時だった。

ママチャリの後部座席しか知らなかった私はどこに行くにも、後ろから着いて行くのを常としていたが、これからは違う。小学生になればランドセルを背負い、一人で道を歩む。

幼稚園を卒園した春、母は真剣にそう言ったが、私は祖母が買ってくれたランドセルがピンクではなくて赤色だったことに落胆しまるで聞いていなかった。

誰の後ろも着いて行かずどこかへ行くなんて到底できる気がしなかったが、母が作ってくれた地図を片手に、私は登校の予行練習へ出発した。一度だけ母が案内した時の記憶を頼りに歩いたが、曲道を間違えただろう、次第に見たことのない風景が広がってきた。電柱はやけに高くそびえ立ち、車は私を見捨てるように過ぎて行く。

十字路の前後左右が異世界に続いているように思えて、ついに足が動かなくなった。ただ私は、母が待つ家から少しでも遠ざかりたくなかったのだ。

地図を見ても、てっぺんに描かれた家と私と母の絵だけにしか焦点が合わず、手汗と一緒にそのまま握りしめた。

 

穏やかな春の日だったのだろう。鳥はのんびり飛び跳ねていたが、暖かな小鳥の合唱すら、私は異邦の地で部族に遭遇し、聞きなれない音楽と共に囚われたような気分にさせた。微睡の陽気の町で私一人だけが冷たい汗を背中に噴出していた。

 

消防署から連絡が来たとき、母は絶望を感じながら小鳥の囀りを聞いたらしい。私だけかと思ったが、母もまたあの春の日に冷たい汗を流していた。しかしそれは救いの電話だろ気づく。

運よく私は町の消防署を見つけ、嗚咽しながら母の地図の中の我が家を指さし、消防隊員のお兄さんに「ここに行きたい」と訴えたのだ。地図に後ろ面には家の連絡先が記されていた。

 

生ぬるい風を運び電車はやってきた。三十分に一度やってくる電車の利点は、間隔の間に普段は考えない事を思い出せるところだろうか。

あの日のように、母は東京までの乗り換えを紙に書いて持たせてくれた。紙の隅には、家の絵とその下に「我が家」と書かれていた。