イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

残り者には福がある【短編】

ブレーキの不快な音はたてずにピンク色の通勤電車がやってきた。そこに乗り込む労働者たちは皆、黄や水色など色とりどりのスーツで身を包んでいる。窓から覗いて見える澄み渡った青空、数えきれないほどの花々にゴミも雑草もない整然とした道は、実際に広がる景色ではなく、人が思い描く「理想の街」をCGで再現した映像を窓枠にははめ込んで写したものだった。脳に直接流れる軽やかなステップのようなピアノの旋律は未だ、ただのBGMだと自分に思い込ませることができずに耳障りな騒音のままである。耳を塞いだとて音は途切れず、俺は逃れる思いで目を固く閉じた。

戦後最悪の不景気、最多の失業者、最大の貧富の差。俺が生まれた頃はまさに負の時代だった。人を信用することを恐れ、誰もが鬱屈した表情を浮かべて生きることを唾棄したものだ。

政府が「幸せな国の再建」のために実施した政策はあまりにも強引なものだった。まず、負の感情に繋がる可能性があるアニメ、小説、ドラマや映画の創作物が禁止された。それらはハッピーエンドが義務付けられて、「死」はもちろん「失恋」や「失敗」などの描写すら規制された。その後も電子技術が発展するにつれて、人を「幸せの思考」へ導く装置は街に増え続けた。

それは新しい装置の一つだった。政府の検査により幸せと見なされた人を小説や映画の創作物へ転生させる制度ができたのだ。はじめは嘘のような装置に当然誰もがいぶかしがった。しかし先に消えていった人たちの作品が公開されるやいなや、作品の中で幸せに生きる姿に残りの者は羨望を抱かずにはいられなかった。次第に利用者は増え、今では、人は転生費用を貯めるために必死で労働に励んでいた。

同時に政府に認められるような幸せを享受している"素振り"をする努力も欠かさなかった。転生が行われる瞬間、謎の光が人を包むと、決まってその頬を伝る水滴が宝石のように輝いた。まるでその人の人生の中で一番の煌めきのように輝く。幸せを強制された国から逃れることこそ何よりの幸せだったように。

それから五十年程が経ち、俺が住む街からは人がごっそりと消え去った。誰も入らない書店には似た内容の転生小説が棚に息苦しそうに詰められ、段ボールにつまった新作を開封して並べる書店員はもはやいなかった。

街には息を吹き返したように虫や緑が心地よさげに揺れていた。自然の真ん中で深呼吸をすると桜の甘い香りが肺に滑り込んだ。他人の息を一つも含まない新鮮な空気。陽光は真っすぐ俺だけに降り注ぐ。残り者の俺は、有限の幸福をゆっくりと噛み締め始めた。