イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

文字のないもの【短編】

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家からその「日向公園」まで行くには徒歩三十分を要するのだけれど、それがまた日が陰り涼しくなった休日の夕方に丁度良い運動になっている。公園というが、広大な敷地に遊具は一つとなく、花畑と桜木が並ぶ野原、それらを繋ぐアスファルトの道があるばかりで園内でも結局散歩が始まってしまう。それでも、殺風景な街の中に在る緑のオアシスのような園内では、壊れかけの時計のようにゆっくりと時が刻まれていて、仕事に忙殺される毎日を送る私にとってはとても心地の良い空間なのだ。

 

遊具がない空間のおかげか老若男女問わず人が訪れ、恋人たちの逢瀬の場となったり、ピクニックや昼寝のための空間になったりする。稀に読み聞かせ会を開く集団も見かけ、鳥の鳴き声や風が草を撫でる音が子供たちを物語の世界へ引き込むのが遠目で見られる。そんな自由気ままな空間では当然のように、ギターや笛の音を自然に解き放ち音楽を楽しむ者もいた。

私が土曜日に公園に行くと必ず居合わせるおじいさんは楽器は持たず歌を歌い音楽を楽しんでいた。何度も公園に行くと自分の定位置のようなものが決まってくる。そんな環境の中で、私たちは互いを認識しつつも挨拶はしないような名前のない関係のまま、いつも隣に並ぶ二つのベンチにそれぞれ腰かけた。

おじいさんは呟くように静かに古い洋楽を歌っていた。少し距離があって声を鮮明に聞くことはできないし、風が吹くとぼうっとノイズが邪魔をする。だがそれが、蓄音機で古いレコードを流した時のような奥ゆかしさがあって良い。

おじいさんの歌う曲は私が知らない曲もあったけれど、歌声は優しさで包んだプレゼントのようにすとんと心に落ちてくる感覚があった。それはこの公園の穏やかさに似ているのだ、とふと気づく。

 

今日は秋晴れの気持ち良い気候だがやや風が強い。目を瞑るおじいさん口が小さく動くのが横目で見えるものの、歌声がよく聞こえない。

思わずおじいさんにそっと歩み寄ると、目を開けた彼が目じりに笑みを滲ませてからちらりと横の席に目を移した。座っても良いのだと認識すると、私は隣に腰かけて耳を澄ました。

私達の間に挨拶や言葉が交わされることはやはり、ない。それでもおじいさんの低く囁くような歌声が二人の間をいつまでも揺蕩っていた。

 

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お題「歌う人」