イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

天秤【短編】

夫は瞳に水分を含ませ「もう勘弁してくれ」と力なくつぶやいた。

それはそっくりそののま私のセリフであり、せめて夫の手に握られた女性物のワンピースを床に置いてから話は出来ないのか... 妻は動揺を堪えながら「とりあえず下に…」とこちらもまた力なく呟いた。

 

七月上旬のいよいよ夏がきたと認めざるを得ない蒸し暑い気候の中、二人はクーラーも電気もつけず、窓から注がれる不安定で真っ赤な夕日を頼りに睨み合いを続けた。

やがて生産性のない時間の浪費にしびれをきらした妻は「女装か、浮気か、あなたの趣味はどちらなの?」と冷たく聞いたのだった。

 

 

 

次男が大学進学のために上京したのを境に夫婦二人暮らしが始まった。

夫婦共働きだったうえに、やや元気が過ぎるといった調子でトラブルメーカーだった兄弟の子育ては夫婦の時間を奪ったが、仕事も家事も子育ても二人でこなし、大きな喧嘩もなく理想の夫婦といって相違はなかった。

 

築き上げた信頼も、崩壊はあっけなくやってる。

3週間ほど前、一着の見覚えない女性物のシャツが、見慣れた服に紛れベランダで干されているのに妻が気付いた。風に揺れる薄ピンクのレースが妻の心臓を撫で、体を身震いさせた。まさか、そんな。

 

しかし疑問があった。夫はリモートワークでずっと家にいたし、着飾って出掛けて行ったことなんて半年はなかった。もしその出会いがあったとして何がどうなって人のシャツを持ち帰るなんてことになるのだろうか。

 

ついに妻は不思議な光景をみることになる。

夫が自室で見覚えのないワンピースに丁寧にアイロンをかけていたのだ。

 

 

 

女装か浮気か、どう返されたとしても妻は倒れそうだった。

どの返答を望んでいるのか自分でもわからず、こんなのは夕方のうたた寝ついでに見た悪夢であってくれとひたすらに願った。

 

日は完全に沈み深海のような暗闇が二人を包む。

夫の頬の上で水の玉がすべり落ちたような気がした。

 

「僕は浮気をした。もうきっぱりやめるから許してほしい。そして誰にも言わないで」

 

夫はか細い声でそう叫んだ。