イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

宇宙船【短編】

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息苦しく縛られたネクタイを、仕事の重荷と一緒に緩めると、人の息を含んだ生暖かい酸素が肺に滑り込んだ。鬱屈した空気が漂う街も、平日最終日となるとどこか陽気さと開放感を持っていて、店たちのギラギラとした照明もいつになく華やかだ。眩しい光から逃れるように空を見上げると、厚い雲に覆われて三日月は輪郭を失くしていた。

腹の虫を刺激する飲み屋の匂いとは名残惜しく別れを告げ、やってきたのは都心の外れにある小さなプラネタリウムだ。八時から始まる最終演目の座席をとると、受付の塩田くんは、お久しぶりですねと微笑んだ。

この小さなプラネタリウムの年パスを買い始めて五年ほどになる。家路の乗り換え駅にあるここは、周囲が閑散としていて独特の非日常感が味わえる。ブランコしかないだだっ広い公園と隣接しているせいか、見た目はいかにも子供向けで、黄色と緑の変な模様を持った宇宙船の形をしている。だが、作りは馬鹿にできず、細部まで作りこまれた小窓からは今にも宇宙人が覗いてきそうなのだ。もっとも俺は夜にしか訪れないので余計にあやしさが増しているのかもしれない。

社会人一年目に通い始めてから五年で、俺には後輩もできて、指導者にまわるようになり、任せられる仕事も大きくなるばかりだけど、このプラネタリウムは、宇宙船はいつまでも都会の隅で小さく横たわっている。

俺を宇宙の魅力に引き込んだのはばあちゃんだ。一人っ子だった俺に、ばあちゃんは、星新一の短編集と宇宙船の模型を買い与えてくれた。あるかしれない星で悠々と暮らす異星人たち、雪のように降り注ぐ星。目を閉じると俺の宇宙はどこまでも広がる。長くてとりとめもない空想話をニコニコ聞いてくれたのもばあちゃんだった。そして、今日はばあちゃんの五年目の命日。今日は必ずここに来る必要があった。

天体がゆっくりと周り、俺は無数の星の中にじんわりと滲んでいく。宇宙船は俺を連れてばあちゃんのいるかもしれない遊星にたどり着くような気がした。