イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

しなしな【短編】

糸がほつれ、もう自立できずしなしなと壁に体を預けるだけの薄汚れたリュックサックの口から、噴水のように白菜と長ネギが飛び出ている。やがて白菜の重みに耐えかねて倒れたリュックからゴロゴロとにんじんが転がり出た。

目に入った人間から喰らいつく巨人の如くそれを掴み取ると水圧が強い水道水の滝にさらし、全身を二往復雑にしごく。

俺の腹の中では、空腹とは別の熱い塊のようなものがじくじく煮えたぎっていた。

バイト先の飲み会。後輩の大学生バイトに日ごろの俺のミスについて散々にいじられこねくり回された上、爆笑の渦の中に落とされた「本当どうしようもないっすね」という爆弾発言に激高して居酒屋を飛び出したのがつい三十分前のことだ。ビールを二口胃へ流し込み、丁度飯を受け入れる準備が整ったときだったせいか、居酒屋の戸の前で真っすぐ家の方向へ向かったつま先が、駅前のスーパーの方へ百八十度翻った。そうしてこれでもかと肉と野菜を購入しまくり今に至る。

普段料理はしなかったから、にんじんと大根の予想以上の固さに戦く。踵を少し上げて勢いよく包丁を振り落とさないと思うようにスパっと分断できない。挑戦状を貰ったような気がして、望むところだと舌なめずりをしてから包丁の柄を握りなおした。

夕飯はどう転んだって美味しくなるだろう鍋にした。すっかり小さくなりグツグツと熱湯の中で揺れる野菜を眺めながら、人生について考える。あいつから見たら俺はどうしようもない人生を生きているように見えるかもしれない。それが事実か俺には分からないし、そもそも誰が判定するかも分からなかった。

俺が思うに人生は食事のリレーだ。俺が飯を食べて明日の俺にバトンを繋げて、また明日の俺が次の自分のために飯を食べる。そうやって先へ進む気がするんだ。

待ちきれず白菜を一口頬張ると優しい出汁と一緒にじゅわりととろけた。鋭く角ばった気持ちも野菜と一緒にしなしなになっていく。人生は美味しいご飯を食べて幸せになった者勝ちだ。腹いっぱい食べて明日へバトンを繋ぐ、そうやって俺は歳を重ねるつもりだ。

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お題「切る人」

 

図書室で会いましょう【短編】

朝、教室に入ると数人の女の子達が私の机を囲み楽しそうに背中を揺らして談笑しているのが見える。周囲から隔てたように隠された机の上にあるのは一冊の中高生向けファッション雑誌だ。持ち込み禁止のそれに載った流行している服やメイクについて話し合うのが私たちのささやかな日課なのだ。美香が「そう言えば」と妙にもったいぶって制服のポケットから取り出したリップグロスは、表紙のモデルが薄い唇に塗りつけたそれと同じものだった。クラッカーのようにパンとはじける羨望の悲鳴。ドミノのように隣に倣って体を後ろへのけぞらせた私の瞳は、気だるそうに机に突っ伏した一人の少女を捉えていた。

その少女の顔と名前が一致したのは先週木曜日の放課後、図書室でのことだ。知り合いではないだろうと油断してカウンターの向こうで船を漕ぐ図書委員を起こすように、返却する本をどさどさと置いた後にふと目線を横切った名札。図書委員が首から下げた名札は、その少女の名前と私と同じクラスの同級生であることを伝えていた。脇から冷汗の玉がタラタラと滑り落ちる。こうして一人で本を読む姿なんて見られたくなかったのに。続きの五巻と最終巻が借りたかったのに。私は後悔と苛立ちが介在した心を平常心のベールで包み隠して、悪者はいない静かな空間に向けて必死に背中で悪態をつき、逃げるように図書室を後にした。

それ以来常につまらなそうな目をした図書委員の少女が私の放課後の日課を誰かに言っていないかが気がかりでしょうがない。そればかりか、また不意の遭遇をしてしまったらと考えると図書室へ向かう足が重くなり、五巻と最終巻の展開は未だ分からずしまいなのだ。始業のチャイムが鳴る。やっと体を起こした少女の顔の下から出てきたのは…それは私が今や恋焦がれるほど読むのを待ちわびている例のシリーズ小説五巻だった。

「コップに並々と注がれた麦茶をごくごく飲みほしたら落ちてしまうようなリップグロスには本当は興味がないのです。君がそのつもりなら図書室で会いましょう。」

私は宇宙人を呼び出す謎の呪文を唱えるように、心で三度ほどそう繰り返した。

曲がり角【短編】

英単語を追うよりも、落ち葉がカラカラと地を駆ける乾いた音に意識が連れていかれていることに気づき、英単語帳を自分の傍らに閉じて置いた。

季節は神がスイッチ一つで管理しているのか、冷たい冬は突然始まった。お気に入りの秋服を満足に着る暇もなく秋が過ぎ去ったが、この頃はその小さな惜しさも相手に出来ないほど心は落ち着きを失ってしまっている。二十歳の俺の、三度目になる芸大受験が刻一刻と迫っているせいだった、

美術予備校横の冴えない公園に並ぶ三つのベンチには、幸の薄そうなOLとホームレスらしき老男性と袖を絵の具で汚した芸大浪人生の俺がそれぞれ腰かけている。北風がいたずらに踊り狂う冬の昼下がりに、皆わざわざ野外で時間を潰していた。彼らがどんな幸福と後悔を味わって生きたのか、彼らの人生の道がどうして、この公園に繋がっていたのかなど互いに知る由もない。

俺はきっと「失敗」と記された標識が指す曲がり角を人より多く曲がったようだ。かつての仲間がいなくなった予備校から逃げるようにこの公園に駆け込み昼休憩をやり過ごしている。

名前を呼ばれたとき、呼び出されたのが俺ではないことを必死に願ったが声をかけた若い男と関連がありそうな奴は三人の中でやはり俺だけだった。その若い男は予備校からほど近い大学に通う高校時代の同級生の高橋だった。咄嗟に単語帳を隠そうとしたが遅く、奴はそれをちら、と見やると眉の端をゆっくり下げ、美大でも学科試験はあるんだよな、と誰に向けたわけでもなく呟いた。三年ぶりの再会でもそれらしい挨拶はない。

高橋はかつて俺の美術を学ぶという進路を肯定的に見て応援してくれた唯一の人だった。俺のデッサンを大袈裟に褒めたたえ、一時は俺の作品が高橋の携帯の待ち受け画面になったこともあった。いつかは俺を支えた大切な思い出はいつの間にか、埃を被った日記帳のように開くのも煩わしく捨ててしまいたいと思うようになってしまっていた。

 

高橋は昔のように俺の肩にずしりと腕を乗せると、今年は大丈夫だ、と明るく呪文のように唱えた。それとほぼ同時に高橋の大学の友人と思しき男性が数人現れ、高橋はその集団に合流するとにわか雨のように去っていった。

結局はOLもホームレスも高橋も、路傍ですれ違う通行人に過ぎない。互いの道が交差してたまたま出会っただけだ。

俺と高橋がもし次に出会うのなら、俺らはどんな曲がり角を曲がった後だろうか。見えない標識を見ようと固く目を瞑る。落ち葉はいつのまにか動きを止めていた。

次こそ死神【短編】

六月上旬、その日は久々の晴天で、雨雲を押し退けた太陽がアジサイの上の水滴を宝石に変えるような気持ちの良い日だった。下校する中学生の声はいつにも増して興奮気味である。この町のK中学校で中間試験の結果が返されたのが学生の熱気の理由だった。試験から解放されて早速遊びの約束を取り付ける学生、友人同士で点数を競い合った学生、静かに結果に歓喜する、あるいは嘆く学生。全ての青春の刹那を太陽が煌々と照らしている。

この時小関家では、兄の壮と弟の裕が一枚の紙を挟み静かな睨み合いを続けていた。部屋に張り詰めた幾千本の糸に触れまいとするように二人は静止している。裕の数学の解答用紙には赤点を大きく下回る十二点と記されていて、あろうことか今それは壮の手に渡っているのだ。兄弟の二段ベットはじとりと冷たい汗を流し、勉強机は固唾を飲みながらなじるような視線を向け、手垢まみれのゲーム機は居心地が悪そうに明後日の方向を見た。壮はイヒヒヒと気味悪く高笑い、紙を左右に揺らした。裕は鼻にしわを寄せ歯を食いしばる。壮は紙を揺らす一方で、さて弟の弱点を掴んだうえでどんなセリフを言えば邪悪になれるのかと思案していた。裕は、まだ何も言われていないのに大げさに膝を落とし絶望したような素振りをした。

この兄弟は今まで漫画で散々目にした、主人公を窮地に追い込む悪役の構図を自分たちで再現していることに内心喜び、堪能しているのだ。

何も起こらない睨み合いの後、壮が思いついたように「一時中断」と手の平を見せ宣言した。そして壮は両親の寝室から白いシーツを引きずり出して再び現れ、それを頭から被り体を包んだ。見た目を死神に近づけることを期待したのだろうが、眩しい西日が壮の背中を照らしているせいで、神々しい後光が射した神様にしか見えない。裕もそのことに気づきながら、今度は邪気に気圧されたかのように尻もちをついた。

兄弟の引くに引けなくなった睨み合いは「赤点は黙っておくから弟は兄の宿題を手伝う」ということで決着がついた。

 

壮は、期末試験まで宿題は裕に押し付けろくに勉強をせず、裕は一学年先の範囲の宿題を(ほとんどは模範解答の書き写しであったが)こなした。そうなれば二人の期末試験の結果は察するに苦しくないだろう。

七月下旬、期末試験の結果が返されたその日。小関家では、いそいそニタニタと白いシーツを引きずる裕の姿があった。

 

文字のないもの【短編】

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家からその「日向公園」まで行くには徒歩三十分を要するのだけれど、それがまた日が陰り涼しくなった休日の夕方に丁度良い運動になっている。公園というが、広大な敷地に遊具は一つとなく、花畑と桜木が並ぶ野原、それらを繋ぐアスファルトの道があるばかりで園内でも結局散歩が始まってしまう。それでも、殺風景な街の中に在る緑のオアシスのような園内では、壊れかけの時計のようにゆっくりと時が刻まれていて、仕事に忙殺される毎日を送る私にとってはとても心地の良い空間なのだ。

 

遊具がない空間のおかげか老若男女問わず人が訪れ、恋人たちの逢瀬の場となったり、ピクニックや昼寝のための空間になったりする。稀に読み聞かせ会を開く集団も見かけ、鳥の鳴き声や風が草を撫でる音が子供たちを物語の世界へ引き込むのが遠目で見られる。そんな自由気ままな空間では当然のように、ギターや笛の音を自然に解き放ち音楽を楽しむ者もいた。

私が土曜日に公園に行くと必ず居合わせるおじいさんは楽器は持たず歌を歌い音楽を楽しんでいた。何度も公園に行くと自分の定位置のようなものが決まってくる。そんな環境の中で、私たちは互いを認識しつつも挨拶はしないような名前のない関係のまま、いつも隣に並ぶ二つのベンチにそれぞれ腰かけた。

おじいさんは呟くように静かに古い洋楽を歌っていた。少し距離があって声を鮮明に聞くことはできないし、風が吹くとぼうっとノイズが邪魔をする。だがそれが、蓄音機で古いレコードを流した時のような奥ゆかしさがあって良い。

おじいさんの歌う曲は私が知らない曲もあったけれど、歌声は優しさで包んだプレゼントのようにすとんと心に落ちてくる感覚があった。それはこの公園の穏やかさに似ているのだ、とふと気づく。

 

今日は秋晴れの気持ち良い気候だがやや風が強い。目を瞑るおじいさん口が小さく動くのが横目で見えるものの、歌声がよく聞こえない。

思わずおじいさんにそっと歩み寄ると、目を開けた彼が目じりに笑みを滲ませてからちらりと横の席に目を移した。座っても良いのだと認識すると、私は隣に腰かけて耳を澄ました。

私達の間に挨拶や言葉が交わされることはやはり、ない。それでもおじいさんの低く囁くような歌声が二人の間をいつまでも揺蕩っていた。

 

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お題「歌う人」

 

クリスマスプレゼント【短編】

私の家の隣には、「鈴木静香クラシックバレエ教室」という名のバレエ教室がある。道に面した側はガラス張りになっていて、仕事から帰ってくる時間帯には、柔軟に体を折り曲げる小学生か中学生あたりの少女たちの様子がよく見えた。


顔を赤くして震える少女の背中をグイグイと押し、頭を、伸ばした足に近づける先生、恐らく鈴木静香さん、を始めて見た時には、昔話に登場する鬼や化け物に対する感情と同じものを先生に抱いた。それ以来、厚いガラスを隔ていても聞こえる先生の力強い手拍子に、何故か私も追い立てられているような気がして、聴いてた音楽の音量を一気に上げて、逃げるよう通りすぎるようになった。
 
クリスマスが近づいた頃、その教室ではどうやらクリスマス発表会に向けた練習をしているようだった。普段は白や薄ピンクのレオタードを着ている生徒たちが赤と緑のレースを折り重ねた華やかなレオタードで身を包んでいる。
イベントとは無縁な暮らしをしているせいか、思わず視線が引き寄せられてしまった。数ヶ月前までは真新しいトゥシューズを履き、子鹿の様な目をしていた少女たちが、一本の糸で吊られたようにピンと背筋を伸ばし、滑らかに踊っている。虹をかけたような曲線を描くジャンプが美しい。聞こえないはずの音楽が頭に流れるようだ。
 
気づくと私はかじかんだ手をもっと冷たいガラスに重ねて踊りに見入り、漏れた吐息が幾度となくガラスを白く曇らせていた。伸びたトゥシューズの先が黒く汚れていてなぜだか泣きそうになる。
 
先生がぱちんと手を叩き、脳内の音楽が止まる。代わりに聞こえる町の雑踏に我に返った。冬の形容し難い雰囲気に飲まれ、感傷的になってしまったようだ。努めて何事もなかったように踵を返すと急に教室のドアが開いた。
静香先生が新品のトゥシューズを片手にこちらを見つめてくる。考えるより先に足が動き何故かそれを受け取ってしまった。
 
静香先生がサンタ帽子を被っていたからだろうか。
 
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お題「踊る人」