イブキの短編小説

1000字短編集・素朴な暮らしの欠片を拾う

ある雨の日【短編】

頭の奥の方から目玉焼きが焼けるような音が聞こえて心が躍る気持ちで目を覚ましたが、それは雨の音だった。そもそも私が一人で暮らすこのアパートで誰かが目玉焼きを焼いているとしたら、心躍る以前に警戒心を持つべきだろうと徐々に冴えてくる頭で自分に言い聞かせる。

脳が目覚めてから体が起き上がるまでの短い間に理性で抑制できない空想的な考えがポンポン溢れ出る現象に名前はあるのだろうか。部屋を支配した冬暁の冷気になす術なく固まった爪先を懸命にさすりながら暗く静かな台所を見た。

道路の水たまりはどれも大きくなっていた。服装から気分を上げようと履いた紫色のズボンの裾は既に雨に濡れシミが広がりつつある。肌にまとわりつく布を信号待ちで立ち止まるたびに引きはがそうとするけど、この大雨の中では当然徒労に終わった。

傘を持つ反対の手には携帯が握られていて、私は十秒に一度、胸がざわつく度に画面で時刻を確認した。街の何処かで水しぶきを上げるバスを思い浮かべながら、どうか今日だけは君も寝坊していますようにと情けなく願う。

バスの出発時刻がもう五分後に迫っていることを確認すると水たまりを避けて進む余裕もいよいよなくなった。地面を強く蹴り上げ走ると水たまりから押し出された雨水が私の腰の位置まで跳ねた。加速すると強まる向かい風の風圧に私の脆弱な折り畳み傘の骨が何度もポキポキとめくれ上がる。一週間前に電車に置いてきた水玉の傘は今どこにあるのだろう。ひょっとしたらそいつも、もう傘の形をしていないのかもしれない。

雨でぐっしょりと濡れた酷い格好にふさわしい酷いエンディングだ。私がバス停の屋根の下に入った瞬間にバスが出発するなんて。こんなことならゆっくり目玉焼きを焼いてから家を出ればよかった。せめて虹でも出たら物語として悪くない終わりだけど、雨はやむ気配もないままだ。

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お題「走る人」

 

温度が下がる【短編】

肉付きの良い大きな体に左右から挟まれて動きを制限されたが、二の腕が伝わる湯たんぽのような熱は冬の寒さには有効活用できた。〇℃に近い冬の夜を貫くように走る黄色の電車の窓は換気のために少し開けられていて、ひゅう、と音を立て滑り込んだ細く冷たい風が疲弊したOLの額を撫でた。

依然と腕の動きを制限されている私は携帯を鞄にしまうことを諦め、再び意味もなく冷たい画面を触る。不意にパスワードを忘れログインできなくなった昔のSNSアカウントのことを思い出して、かつての半分以下の努力量で何回かパスワードを解こうと試みると、四回目の挑戦で錠前は壊れた。一文字目を大文字にするだけで良かったのか。

大学生の頃から社会人になって最初の二年目まで使っていたそのアカウントが、携帯の機種変を機に主人の前に錠を下ろしてから更に三年が経とうとしていた。

日めくりカレンダーの紙の束をわしづかみ一気に破り裂いたように、三年の月日を超えたそこには、年齢だけが増したかつての同学たちが当たり前のように生きていた。最新の投稿は、紺のドレスを着た女とスーツ姿の男がシャンパンを掲げた場面の写真だった。

変化が起こるわけでもない静止画をじっと眺めていると、「オンラインのなんて本当いつぶり?」と仲の良かった彩からアプリを通じてメッセージが届いた。瞬間、今すぐ返信をしたいような、永遠に無視したいような両極端の考えが介在した。気づくと両隣の乗客は既に電車を降りていて、両腕を自由になっていた。

前に使っていた携帯が水没で壊れたとき、友人の連絡先まで水に流れてしまい、私の対人関係はリセットされていた。

彩とは偶然にも家が近く、そうでなければ再会しようとは思わなかったかもしれない。都内のカフェを指定したのは彩だった。喜ぶかもと持って行った、二人で応援したアイドルの限定グッズは、その日鞄から出てくることはなかった。

彩はそこにいない恋人の話を続ける。私は妙に肌寒くて湯たんぽのことを考えていた。

 

アイウォントチキン【短編】

目をつむれば、小人になった私が、ヒヨコが歩き回る箱に放り込まれているファンタジーな絵が想像できた。目を開くと、大きなホースみたいな階段口から水の如く溢れ出る、人、人、人。

彼らがピヨピヨと鳴くカードをかざしながら改札を通り抜けると、皆がのっぺりとした大量生産された労働者の顔から、それぞれが異なったしわを持つ一人の人間の顔を取り戻していた。

毎日顔を合わせている彼らは、互いの肩の開きが、顎が上を向く角度がいつもと違うことに気づいていた。刺すように鋭く散らばる互いの視線が、今日は曲線を描いて辺りを漂い、リボン結びで交わっている。

それに今日は何だか「色」が多い。頭からつま先まで黒で染まる人達の頬には、青赤黄の鮮やかな光が浮かび上がり、彼らの黒い瞳にも同じ色の光が宿っている。彼らの腰元には、赤い箱が大事そうに抱えられていたりもした。今日はクリスマスだ。

 

駅構内の隅、小さなケーキ屋の前に私は立っていた。私の視界の左側には積み上げられた赤いケーキの箱が積み上げられているのが見える。この店の店長と三人の店員の八つの耳は、途切れず流れるクリスマスソングを遮断して、代わりに人がこちらにやってくる足音に注意を向けていた。

うちの店のケーキが悪い訳ではなく置かれた環境だけが問題なのだと、マスクの下でフガフガしながら店長は言う。確かにこの駅をぐるりと見やると、馴染みあるチェーン店や「日本初上陸」と大層な売り文句を掲げたケーキ屋がいくつか並んでいた。

流行りのアニメのコラボケーキを抱えた少年が母親の手を解き、目の前を駆けていく。

先ほどの乗客の大体が去っていったのを確認すると、呼び込みを止め再び目を閉じた。腹が空いていて浮かんだのは、揚げあがったばかりのフライドチキンだった。試食のケーキに手を伸ばしかけるが先か、またピヨピヨとヒヨコの大群がやってきた。

店長の視線に気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、はく息が震えた。

 

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綿矢りささん 「蹴りたい背中」の一文を引用。

 

背筋【短編】

一人また一人とドミノのように倒れていく半身で視界が開けていった先に小さな背中をすんと伸ばした少女が見える。熱心に授業を受ける彼女を誰もが学生の規範と認め敬い、他方で一般的な学生よりもやや伸びすぎた背筋をどこかで笑っていた。

彼女は自身の模範的な授業態度に見合う学力を当然持っていた。優しく平和的な性格で、特別仲の良い友人はいないようだけど、放課後には同級生に勉強を教えるところを何回か見かけた。彼女の周りを人が囲む光景は珍しくなかったが、彼女と他人の間にはいつも教科書があった。

また一人崩れた。隣の席の男子学生が脱落した。彼の机にだらしなく置かれた腕の中には、主人に見られなくなってもピカピカ光るスマートフォンがあり、顔を覆い隠す教科書は今受けている授業と関係のない教科書だった。

黒板を見ようとする私の視線を強い引力で引き付ける小さな背中には髪の毛一本もかかっていない。耳当たりの長さまで綺麗に揃えられた毛先が彼女が板書する動きと合わせて首筋を隠したり、晒したりした。

 

規模は小さい噂だが、それは私の耳にも流れ着いた。彼女は貰い、同級生の課題を代行しているらしい。噂が広まると彼女は次第に学校に来なくなった。

英語の授業で強制的書かされた環境保護に関する英作文。全校生徒の中から選ばれた最優秀賞は小野くんで、優秀賞は私だとホームルームで発表があった。小野くんとは私の隣の席の男子学生で、その発表がされたとき彼はまた眠っていた。

今時、プリントを欠席者の家まで届けることは少ないけど、優等生の欠席が一週間続いたことを気にしてか、先生は彼女の住所を二つ返事で教えてくれた。二等賞に腹を立てた訳ではなく、誰のためにもならない偽善はやめろと伝えに行きたかった。

さびだらけの階段を上り、彼女と向き合うと、彼女は「君こそ」としゃがれた声で言った。

重い扉が金属がこすれる不快な音をたてて小さく曲がった背筋を隠していき、やがて消えた。                                     

 

利己的久しぶり【短編】

もう少しメニューを吟味したかったが、俺の後ろに列が出来始めたので勢いでA定食を選んでしまった。食券を受け取った食堂のおばちゃんは慣れた動きで素早く米を盛り、みそ汁を注ぐ。その身のこなしに感心しながら茶碗をお盆に乗せようと手を伸ばすと、手のひらに触れる粘着質な米粒の感触。

速さも重要だが丁寧な仕事も欠かせないぞ、とエプロンの紐が食い込む背中に細い睨みを送った。

A定食は俺の苦手な煮魚定食だった。そうと分かった瞬間に、皿に伸ばした指先がわずかに力を失なったが、盆にのせ終え踵を返すと、温泉卵もつくよ、という怒鳴りに近い叫びに足止めを喰らう。

四方から注目の視線が刺さるのを感じ、温泉卵男とあだ名がついたらどうしてくれると脳内で糾弾する。卵が入った小皿の横に並ぶチキンカツ定食に再び細い睨みを送った。スタッフの接客態度が悪いと口コミで低評価を書き込みたかったが大学の食堂にはそんなものは存在しない。

窓際の席を気に入っていたが、今日は女子の集団が大変賑わっていて肩身が狭いから男だらけのカウンター席に方向転換した。一人飯が連なるカウンターに並べられた背中はキラキラしたキャンパスに似合わない陰りがある。厨房から聞こえる中年女性と中年男性の談笑の方がよほど若々しく青春を感じられた。

自炊で節約していた食費の中での稀な贅沢だった学食を残すなど許しがたいとリュックの底から財布のくぐもった叫びが聞こえたが、海の生臭さが無理だと俺の鼻と口は反論する。

葛藤の中でみそ汁とひじきの往復を繰り返していると不意に背後から声をかけられた。目は見開き、眉が吊り上がっているせいで額に綺麗な三本のしわが刻まれているその男は、久しぶりだ、と繰り返し唱えたがまるで記憶にない顔だった。こちらは一言も口を利いていないのに、さも当然といったように隣に腰を下ろした男を、呆然と眺めていると「一年の前期のフランス語で一度ペアになったことがある鈴木だよ」と名乗られた。

覚えている訳がないと突き放そうとする言葉は、次に鈴木が口にした言葉によって、食道を通り俺の体内に戻された。

「本当はA定食食べたかったんだけど売り切れでさ」

俺は目線だけでなく体ごと鈴木と向き合うと、「本当に久しぶりだな」と笑いかけた。鼻をかすめるチキンカツの脂っこい匂いに口内を唾液で満たしながら。

 

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お題「忘れる人」

 

理想の年明け【短編】

湿った土を踏む足音が連なって聞こえている。深い夜か浅い朝と呼ぶべきか、午前四時頃に黙々と山を登る一行の足音だ。十数人が列を組み、うねうねと山道をなぞる様子はきっと一匹の大蛇にも見えよう。どこを見ても色彩の乏しい景色は変わらないので私はただ下を向き、一方の足がもう一方の足を追い越すのをひたすらに見続けた。

「絶景初日の出を拝む登山ツアー」という文言に赤く煌めく朝日の写真が添えられた広告を見たとき、十代最後の記念すべき初日の出はここで見るしかないと確信した。偶然に夏美も同じ広告を見つけていて、そうと分かると話し合いもなしに二人ですぐに申し込みボタンをクリックした。

それから今日まで二人の関心は新しい登山ウェアだとか、美しい朝日を収めるためのカメラだとかにしか向いていなかったわけだが、その商品ページは一旦閉じて「登山」それ自体を調べる必要があっただろうと、寒さと眠気で朧気になる頭の隅で強い後悔が渦巻いていた。

どんな虫が眠っているか知れないねちねちとした土の感触に眉根を微かに寄せながら、かつての大晦日に思いを馳せた。こたつに肩まで潜り込んで、テレビの音と家族の会話に意識をいったりきたりさせながら、指先をミカンで染める夜。今となっては朝日よりミカンの橙色の輝きを求めてしまっている。

隣にいる表情がない夏美も同じことを考えているはずだ。しかし決して言葉にしてはいけないと互いに分かっていた。太陽の機嫌を損ねてしまっては叶わない。

それから何千歩あとのことか、ついにその時がきた。朝日が見えるより先に灰色の空が徐々に色づいていく。そして遮るものもなく真正面に鋭い光線を放つ朝日が現れた。感動的だ。この世界を初めて見た赤ちゃんもこんな気持ちを抱いたのだろうか。

久しぶりに夏美と向き合った。夏美は興奮した様子で朝日を指さすと「ミカン!」と叫んだ。やっぱり求める場所はこたつか。

もらうひと【短編】

鼻の奥で枯れ葉が蠢くようなくすぐったさを感じて五回続け強烈なくしゃみ。喉のあたりに焚火が行われているような熱い痛みを感じる。ほくほくで優しい甘さをもった焼き芋を舌の上で堪能した後に喉に滑り込ませたならたちまちこの季節風邪も癒えるだろう。筋肉の制御ができなくなる大きなくしゃみの影響で一、二歩と足がよろけるとパチンコの広告チラシが挟まったポケットティッシュが差し出された。丁度マスクの中では鼻水が垂れていたから有難く受けとり、道路の隅で鼻をかんだ。

会社に到着するとデスクの上に小さなパンプキン型の容器が置いてあった。清掃の峰さんが社員全員分用意してくれたらしい、と隣の伊藤が飴玉を舐めながらの変な発音で嬉しそうに教えてくれた。

俺はパンプキンの中からチビカツという駄菓子を選んで食べてみた。駄菓子なのに思ったより衣がサクサクしていて、嚙むたびにソース味の油がじゅわじゅわ滲みだだすのが旨い。

マスクをつけなおし仕事にとりかかってしばらくすると、喉の猛烈な渇きを感じられた。指先のかじかみも和らぎやっと調子づいてきた頃だったから席を立ちあがるのが惜しく、応急措置で唾を生成しようとしたが飲み込めるほどの量にならない。それでも甘んじて飲み込むと乾いた喉がギュッと音を立て絞られ、余計酷い目を見てしまった。

観念して自動販売機で冷たい緑茶を買うと当たりが出ていちごミルクが追加された。甘い飲み物は余計に喉が渇くから飲みはしないが気分は良い。

寒くなってきたら夕飯は鍋一択だろう。八百屋で白菜を買うと、鼻水をすする俺を見かねておじちゃんがリンゴをおまけでつけてくれた。日が沈むと一層に寒くなり肩と歩幅を縮めると、エノキを買い忘れたことに気づいてしまった。一度気にかかると妥協できない性格が俺を最寄りのスーパーに招き入れると、「祝・来客一万人達成」と書かれた垂幕が頭上に降りてきた。

優しい曲線のしわが刻まれた店長と握手をして記念撮影を終えると、店の、鳥に似たゆるキャラのぬいぐるみを渡された。

帰宅して今日貰った全てのものを詰め込んだエコバックを、思わぬ待ちぼうけをくらい仁王立ちで待っていた息子に手渡した。すると息子は中身を確認せずへの字に曲がった口角をきゅんと引き上げ笑う。貰うって、渡すってこういうことだよな。